馬宮の歴史

馬宮地区の大宮台地周辺には縄文時代の貝塚が見られ、古入間川の自然堤防上では弥生時代の竪穴住居跡が発掘されています。江戸時代初期には徳川家康が訪れた足跡も多く残されています。

五味貝戸の縄文遺跡

 馬宮地区に隣接する指扇地区は大宮台地の西面にあたり、枝葉のように高台が形成されています。その下の低地では縄文海進が進んだ時代には、海の貝と川の貝の両方が豊富に取れました。

 栄小学校の近くの五味貝戸遺跡の低地ではシジミなどに交じって、アサリなどの海の貝もたくさん採れたようです。


家康の足跡を訪ねて

源頼朝も戦勝祈願

古尾谷八幡神社

 古尾谷八幡神社には源頼朝が戦勝祈願などで2回訪れたとの記録があります。実は徳川家康も天正19年(1591)に立ち寄っています。ここから昼間の渡しに向かったことが想像できますが、家康は鷹狩りを好み、当地には度々訪れていたようです。

佐知川の願満堂

 家康は旗本数騎馬とともに、願満堂で休息しようとしたところ、後北条氏の残党により戦機急にして休むことを許されず、すぐに立ち去ったそうです。そのため、地元では「ガマン堂」と読まれています。

弥生時代の住居跡

 いまは土屋下のドラックストア・スギ薬局がある場所から、弥生時代の竪穴式住居が発掘され、そこから貴重な鉄製鎌とガラス玉が発見されました。

 ガラス玉は大陸から持ち込まれた品であることから、古くから有力豪族が影響力を持っていたことが伺え、鉄製鎌からは稲作が行われていたことを伺えます。


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川越から岩槻へ

昼間の渡し

 徳川家康は小田原北条氏が亡びた後、直ちに、新たな領地の江戸に入りました。翌年の天正19年には、川越から岩槻に移動する途中で旧入間川(びん沼川)に差し掛かり、夕暮れを迎えました。そこで、村人は松明を昼間のように焚いて、家康が川を渡るのを助けました。村人の助けにたいそう喜んだ家康は渡し守に「昼間」の姓を名乗ることを許し、2丁歩(約6,000坪)の土地を与えたと伝わっています。

 なお、旧入間川は家康の指示により、その後の河川改修で荒川になりました。

 毎年11月3日には、「昼間ノ渡シ火マツリ」が地元の飯田新田の人たちにより行われます。地元代表が家康役に扮し、両岸を松明で明るく照らして、渡し船で川を渡ります。その様子を馬宮西小学校の生徒が、「家康の足下照らす昼間の渡し」と詠みました。昼間の渡し場にはかつて家康ゆかりの東照宮も建立されていました。

土屋陣屋跡

 土屋には江戸時代初期に代官頭(のちに関東郡代)となった伊奈忠次・忠治親子が陣屋を設けました。土屋陣屋は有力家臣の永田氏が受け継ぎ、その長屋門は貴重な文化遺産として、今日まで保存されてきました。

 土屋下の弥生時代の遺跡は、土屋陣屋の堀を隔てて北側に位置しています。


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天正19年の記録

水判土慈眼寺

 水判土にある慈眼寺はこの近在では最も古い名刹とされています。大宮台地の枝葉の先端に位置しているため、南の眺望が開けた戦略的な場所ともいえます。家康は天正19年に慈眼寺にも訪れています。

三橋の茶堂

 家康は三橋の観音堂で休息しましたが、出されたお茶がたいそう美味しかったため、ここを「茶堂」と名付けました。この地点は川越や岩槻に向かう交通の要衝であり、江戸時代には「読み書きそろばん」を教えた寺小屋もあったそうです。


歴史遺産の案内板設置

弥生時代のガラス玉と鉄製鎌

 土屋陣屋跡の長屋門で知られる永田邸の北側にスギ薬局土屋店があります。この地から弥生時代の竪穴式住居跡とともに、ガラス玉と鉄製鎌が発見されました。古代から稲作が行われ、有力者が住んでいたことが伺えます。

伯楽の碑

 伯楽とは馬医者のことで、この馬頭観音像は嘉永6年(1853)に馬医者の桑原流伊藤源治とその息子、孫が世話人となって、地元の有力者の寄進で建立されました。ここは旧川越道の千手堂の渡しに向かう地点でした。

西善坊のお地蔵様

 二ツ宮の西善坊跡地の地蔵堂内には、室町時代に建立された地蔵図像石塔婆があります。石塔婆からは「応永」の文字が読み取れ、江戸時代にはここに寺小屋が開かれていました。古来より、教育に熱心な地であったようです。

川越電気鉄道高木電停跡

 明治39年(1906)に埼玉県で最初の電気鉄道が、川越市の実業家などの出資により、川越と大宮間に開通しました。単線のため、西遊馬の高木電停は「すり替えの駅」と呼ばれ、上下線が交換できる構造になっていました。