荒川の流れと生きる

 徳川家康の命により、伊奈忠次・忠治親子は江戸時代初期に荒川の流れを熊谷市久家付近でせき止め、入間川の支流の和田吉野川に付け替えました。これが荒川の瀬替え(西遷)と呼ばれる工事です。元の荒川は元荒川となって、埼玉県東部を流れています。新たな荒川は入間川に合流し、馬宮地区西部を流れるようになりました。

 その後、当地では荒川による洪水が頻発するようになり、飯田新田出身の県会議長であった斉藤祐美らの働きかけにより、大正7年から荒川の河川改修工事がはじまります。工事の完工は昭和29年のことでした。こうした対策により、50年以上にわたって大きな水害は起きていませんでしたが、令和元年の台風19号が上陸した際には、もう少しのところで荒川が越水する危険にさらされました。

 直後に荒川堤防の強靭化工事が始まり、堤防は3mあまりかさ上げされました。さらに総工費1670億円の巨費をかけて、荒川第2・第3調整池の工事が現在進行中です。こうした対策は荒川流域の東京都民、埼玉県民一千万人の生活を水害から守るためのものといえます。

荒川の水害を防ぐために行われた数々の対策を写真で紹介しましょう。

荒川の流れ

大正から昭和にかけての河川改修により、荒川は直線化されて水深も掘り下げられ、洪水のリスクが軽減されました。


下ノ谷新田

 西遊馬高木の荒川堤外には、下ノ谷と呼ばれる湿地帯があります。昭和初期に冷害に強い農林1号の苗を選定し、農業用水は下流の丸っ堀から引いて稲作を開始しました。

 現在は台風による水害を回避するため、4月にコシヒカリの田植えを済ませ、8月初旬には稲刈りを完了しています。


荒川第3調整池

 荒川第3調整池の工事は上尾市平方の開平橋の南側から始まっています。平方は江戸時代から舟運で栄えた物流拠点でしたが、この地点だけ堤防がなかったため、令和元年の台風19号では、荒川が越水して甚大な被害を受けました。


錦乃原の桜草

 荒川に架かる治水橋の北側に桜草の自生地が広がっています。「錦乃原」の命名は徳富蘇峰によるもので、昭和初期には文部省により天然記念物に指定されていました。現在は錦乃原桜草保存会や栄小学校の生徒により、大切に育てられています。


令和元年台風19号襲来

 令和元年10月14日の早朝、関東地方西部に上陸した台風19号は各地に大きな被害をもたらしました。とくに長野県では千曲川の洪水により、甚大な損害を受けました。

元荒川源流付近

 荒川の西遷により、荒川は熊谷市久下で閉め切られ、入間川支流の和田吉野川に付け替えられました。久下付近では荒川の伏流水が豊富に湧いていたため、その地点が現在の元荒川の源流になりました。

荒川の横提

馬宮地区の荒川堤防からはいくつもの横提が川に向かって伸びており、増水時には川の流れを緩める機能を果たしています。


防災ステーション

 荒川と入間川、そして、そこに流入する中小河川の内水による水害に対応するため、西遊馬に防災ステーションの予定地が造成されました。

 将来的には、流域に水害が発生すると、ここから土のうなどの資材を運べるように施設を整備することになっています。ヘリポートを整備する計画も含まれています。


荒川第2調整池

 荒川第2調整池の工事は浦和の羽倉橋北側から開始されました。現在は3mほどの高さの堤防が錦が原ゴルフ場のコースを埋め立てる形で進んでいます。工事はこのまま北上して囲ぎょう堤となり、荒川の洪水を防ぐ効果が期待されています。


西遊馬出水口

 西遊馬には飲料水用の出水口があります。この水は利根川から見沼用水経由で、大宮大門町から地下水路を通って荒川に至っています。1964年の東京オリンピック前に、東京都の水不足を補うために急遽建設され、今日でも立派に機能しています。


滝沼川の水門

 台風19号が到来した際には、荒川につながる滝沼川では、宝来樋管の処理能力が限界に達したため雨水を処理できず、指扇・宝来地区の低地が浸水しました。

血洗島の渋沢栄一生家

 明治時代の実業家・渋沢栄一の生家は深谷市血洗島にあります。血洗島は利根川の右岸に開けた土地であり、現在は深谷ネギで有名ですが、かつては藍作りが盛んに行われていました。また、田んぼの土が粘土質でレンガの原料に適していたため、明治時代には東京駅などの建設に深谷のレンガが使用されました。

 令和6年には渋沢栄一の写真が新一万円札に採用されるようになる予定であり、深谷市を訪ねる人々がますます増加すると予想されます。

荒川の背割り提

荒川と入間川の合流部から、北に向かって一本の堤防が走っています。両河川の逆流を防ぐことを目的に造られたそうです。


治水橋越水防止ゲート

 令和元年の台風19号が襲来したときには、馬宮地区でもあと2メートル余りで荒川の水が堤防を越える危機に瀕しました。その後まもなく、堤防は3mほどかさ上げされる強靭化工事が進められました。ところが、治水橋と川越線踏切の堤防ははかさ上げできず、越水のリスクがあったため、治水橋に急遽ゲートが設けられました。


上江橋の歩道

 荒川と入間川に架かる国道16号線の上江橋は長さが1610mあり、河川に架かる一般国道の橋としては日本一の長さです。

 かつてはここに上江橋有料道路があり、東京外郭地区の物流を大幅に改善し、昭和期の経済発展に寄与しました。


JR川越線鉄橋

 荒川第2・第3調整池の建設工事とともに、老朽化したJR荒川鉄橋が架け替えられることになりました。荒堤防は強靭化工事によりすでにかさ上げされているため、新しい鉄橋も現在より3mほど高くなるとのことです。


内水氾濫

 西遊馬北部でも、滝沼川沿いの地域は床下浸水の被害を受けました。このエリアでは宅地化が急速に進みましたが、50年以上経験をしたことがない内水氾濫でした。