知らなかった馬宮の歴史

 さいたま市西区の馬宮地区には荒川と入間川が流れ、古来よりその流れから恩恵を受けてきました。その反面、荒川は「荒ぶる川」といわれ、人々はその洪水に悩まされてきました。埼玉県は荒川流域が面積の7割ほどを占めているため、「川の国」とも呼ばれています。馬宮地区には荒川の特長が随所にみられますので、時代の流れをたどりつつ知らなかった歴史をご紹介します。

1.石器時代から縄文・弥生時代

埼玉県東部には、鴻巣付近から川口に至る「大宮台地」という関東ローム層の高台が形成されています。この台地上を北上するのが中山道ですが、この台地上に古代より人々が住んでいた痕跡があります。

さいたま市西区には大宮台地の指扇支台がありますが、清河寺前原地区の発掘により、旧石器時代の矢じりや斧などの石器が多数発見されました。これらの石器は固い黒曜石からできており、長野県や伊豆諸島で見られたものだそうです。

五味貝土の貝塚遺跡は縄文時代のものであり、この地には縄文海進により海が迫っていたため、海と川の貝類が豊富に採れました。自然堤防上の土屋下では、弥生時代の住居跡から、鉄製の鎌やガラス玉が発見されており、古くから稲作が行われていたことがうかがえます。

2.江戸時代の荒川西遷

 天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、徳川家康は新たに関東の地を与えられ、すぐに江戸城に入りました。江戸湾を埋め立てて城下の整備を行うとともに、利根川の東遷と荒川の西遷を指示して、大規模な河川改修を進めます。これにより、関東全域では舟運が発達し、江戸湾に注ぐ河川の湿地帯は新田開発に生まれ変わり、その実りが徳川幕府の財政を潤すことになります。

 家康の有能な家臣であった伊奈忠次は、天正19年に伊奈町に陣屋を設け、関東代官頭として、二男の忠治とともにこれらの大土木事業を指揮しました。土屋周辺には有力豪族がいたようで、これを牽制するために江戸初期には土屋陣屋を設けるとともに、荒川の治水に務めました。荒川を熊谷の久下付近で入間川の支流の和田吉野川に付け替え、もとの荒川は元荒川となりました。

 荒川の舟運が盛んになると、埼玉県西部の秩父や名栗方面から建設用の材木(西川材)が江戸の普請に活用され、江戸からは日用雑貨や肥料が川を上ってくるようになりました。大きな河岸があった平方から江戸までは舟で1日、帰りは3~4日かかったそうです。

3.川越電気鉄道の開通

 川越電気鉄道は明治35年(1902)に、のちに初代川越市長となった実業家・綾部利右衛門などが中心となって、県下最大の町であった川越市内の電気供給事業と川越と大宮間を鉄道で結ぶことを目的として設立されました。その4年後の1906年に、埼玉県で最初の電車鉄道として、川越久保町と大宮桜木町間に川越電気鉄道が開通しました。明治18年にはすでに大宮駅が開設され、高崎線と東北線が分岐する大宮は鉄道の町として発展していたので、川越の人々は何とか大宮と鉄道で結び付けたかったのでしょう。

 全長12.8キロの沿線には16の駅(電停)があり、馬宮地区には高木、合土(西遊馬)、五味貝度の3つの電停がありました。とくに高木は中間地点だったので、単線が交換できるように「すり替え」の形状になっていました。大正11年(1922)には旧西武鉄道が設立され、川越電気鉄道は併合されて「西武鉄道大宮線」と改名されました。

 国鉄川越線は日中戦争直前の昭和15年7月に、大宮から川越を経て高麗川までの全線が開通しました。川越線は国策として、戦争に備えて軍事目的て敷設されたもので、高崎線、東北線の迂回路線としての役割を課せられました。区間が競合する西武鉄道大宮線はその年の12月に営業を停止し、その役目は西武バスに引き継がれることとなりました。

 上越新幹線と東北新幹線が開通すると、川越線は電化されて埼京線に乗り入れるようになり、新宿まで直通運転されるようになりました。また、指扇駅は改修されて北口もでき、利便性が大いに高まりました。川越線の蒸気機関車やディーゼル気動車を知る世代にとっては、まさに隔世の感があります。

4.大正・昭和期の河川改修

 江戸時代に荒川の西遷(瀬替え)が行われると、荒川と入間川が合流する馬宮地区は毎年のように洪水の被害を受けました。集落の周りには大囲堤や堤防が設けられましたが、抜本的な解決にはなりませんでした。

 荒川(びん沼川)右岸の飯田新田の医師の息子の斎藤裕美は医学生でしたが、夏休みの帰省中に荒川の洪水を目の当たりにしました。その後、県会議員となった祐美は荒川の流路を直線化することで洪水を防くことを志し、下流の東京都民の協力も得て、なんと大正7年(1981)から昭和29年(1954)まで37年の歳月をかけて荒川の河川改修を完成させました。荒川には治水橋がかかり、交通の往来も便利になりました。斎藤裕美は斎藤治水翁として名を残し、その功績は顕彰碑として治水橋のたもとに残されています。

5.国道16号線上江橋の開通

 国道16号線の荒川と入間川に架かる上江橋は1610mの長さがあり、一般国道に架かる橋としては日本一の長さです。2番目は静岡県の富士川の鉄橋だそうですが、偶然なことに、荒川も富士川も源流は埼玉県と長野・山梨の県境にそびえる甲武信岳となっています。

 最初の上江橋は川越市古谷本郷を流れる古川(旧荒川)に架かっていました。明治27年に古谷本郷の北部(上郷)に長さ62間の木造の橋が架けられたのが最初でした。上郷にちなんで「カミゴウハシ」と命名されたと、古谷小学校の正門近くに元埼玉県知事であった畑和翁が揮ごうした由来の碑があります。その橋の名残は規模が小さくなって「江藤島上江橋」として残っています。

 大正から昭和にかけての荒川大改修により最初の上江橋は新しい河道に移され、その後、埼玉県で最初の有料道路である上江橋有料道路が昭和32年(1957)が開通します。その長さは866mあり、当時は東洋一の長さといわれました。国道16号は上江橋でつながれ、東京外郭の経済発展に貢献しました。上江橋ではTV創世記の人気ドラマ「月光仮面」のロケが行われ、月光仮面と敵役のサタンの爪が橋から落下する結末には肝を冷やしました。

 現在の上江橋は外回りが1977年、内回りが1997年に竣工しました。上下2車線となって、車の流れが格段によくなりました。ここから眺める富士山の姿は秀逸です。

6.令和の荒川調整池建設

 令和元年(2019)10月12日に伊豆半島に上陸した過去最大級の台風19号は、関東甲信越、東北地方に大きな被害をもたらしました。とくに荒川と同じく、水源を甲武信岳に取る千曲川が氾濫した長野県では、過去に例をみないほどの甚大な被害を受けました。馬宮地区でもあと2メートルほどで、堤防を越水するほどの増水を記録しました。滝沼川や加茂川などの支流でも、内水氾濫により大きな被害がでました。現在の荒川堤防ができてから初めて危険水域を越え、まさに百年に一度の水害に見舞われたともいえます。

 その後、政府により、荒川の堤防のかさ上げ、拡幅工事が直ちに進められ、現在は羽倉橋から川越線鉄橋までの荒川第2調整池、川越線鉄橋から平方開平橋までの第3調整池の工事が本格化しています。これらの工事は荒川流域の一千万人の人々を水害から守る大工事であり、総工費1760億円という大型投資にもうなずけます。

 江戸時代の荒川河川改修から四百年以上が経ちますが、令和の調整池工事により荒川の水害を防止できるように期待しています。